吉凶について

おみくじといえば吉か凶か。大吉を引くとジャンプして嬉しがれるのに、凶系を引くと落ち込んで、落ち込んだだけでなく引きずる派だからおみくじを引かない、なんて人もいたりするのではないでしょうか(いんの?)。
やはりこういう類はケロリとすぐ忘れれる人向きだなぁ、と『一緒に行った人がおみくじを引いて一喜一憂している』のを眺めて楽しむ、という人もひょっとするといるのかもしれません。

そもそも『吉凶』とは何か?

吉…縁起や運が良いこと

凶…縁起や運が悪いこと
ネットより引用

ネットを調べるとこんな感じ。これではちょっと皆さんが知ってること。
なので、中国の『易経』を読むと、

吉凶とはその失得を言うなり。悔吝(かいりん)とはその小疵を言うなり。

吉凶を弁ずるものは辞に存し、悔吝を憂うるものは介に存し、震きて咎なきものは悔に存す。
易経の繁辞上伝

一気にランク上がりましたね。難易度大

「吉」は得る事であり、「凶」は失うこと。

そして吉と凶の境界は「悔」と「吝」にある。

「悔」は文字通り「悔い改めること」で「吝」は「思い切りがない、ためらう、ケチる」。
翻訳参照

どういうことかというと、

ある一定の事象に対して「きちんと向き合うか」「向き合うことおろそかにするか」の境界が吉凶の境界にある。

吉…得る事。事象と向き合うことで「吉」となるのは、向き合うこと自体が「得ること」につながるため。

凶…失う事。事象を軽視及び無視すること自体が「得るチャンス」を損失している。
翻訳参照

これらのことから言えることは、事象自体には吉凶は存在しない。

例えば、『部屋に何か楽器があること(事象)』自体は吉でも凶でもなくて、

『その楽器を手にとって弾くこと(アクション)』は「吉」であり、『その楽器を手に取らずに放置すること』が「凶」ということ。

ってことは、

「悔」の蓄積が「吉」を呼び、「吝」の蓄積が「凶」を呼ぶわけであり、それが表面化することをそれぞれ「吉事」「凶事」と呼んでいるだけ。

何かから目を逸らし続けている人は凶を呼ぶ

二、三年前ぐらいですか、法事があり、弟が家を継いだのにも関わらずその日は体調不良ということで、僕が仕切るハメになった時に気づいた『違和感』もきっとこれなのですね。

その日、弟は体調不良にも関わらず親族に挨拶もなく車を運転し家から出て行き何処かで時間を潰していた。

無意識なのか?意識してなのか?どちらにせよ『目を逸らす』癖は習慣として常習化している気がした。少なくとも、モヤモヤしたものが残りました。

何か事象が起こったときにそこから「逃げ続けている人」は凶事を招き続けるわけです。

その事象はきちんと向き合って欲しいから発生しているにも関わらず、そこから目を背けたり、無視したりし続けているとより大きなシグナルとなって事象は起きます。

植物を無視して水をやらないでいると枯れてしまいます。きちんと植物と向き合い手入れすることで植物は生き続けやがてはあなたに果実や安らぎを与えてくれるかもしれません。

これと同じで自分の気持ちときちんと向き合わず、ごまかし続けることで自分は滅びてしまいます。

向き合わなかった結果はわかりやすく「病気」や「事故」といったシグナルとして現れる。易経はそう言っているわけです。

しかし、何度もいうように「事象はあくまで事象」です。

この事象自体に吉凶はありません。この事象にどう向き合うのか。そこに「吉凶」があるわけです。
翻訳参照

人に『向き合うことを促すこと』の難しさ

占いというのは便利だなとつくづく思うのは、占いを使わないと壊れてしまいそうな人間関係でも、壊さずにその人を導くことができるかもしれないから。

あの時、このコトワリを知っていたらなぁ。

でも、逆にあの日の経験があったからこのコトワリがすんなり入ってきたのかもしれません。

レッスンも同じ


僕は仕事が『教える』ということを生業にしているのですが、『一緒に(楽器に)向き合ってあげる』ことで対価を得ていたのですね。

運が良いとは『向き合うチカラを有している』ということ

まとめると、

上手くいく人ってのは単純にそれが『運』が良いからではなかったのですね、

その人が『向き合って』答えを出して、行動をした『結果』のたまものでしかない。

『向き合うことを自然にできている』だけなんですね。

向き合い続けたいと思います。

公晴