言葉に気をつけなさい…とある有名な『気をつける』お話し、これは『運気』の話だったんですね。

思考に気をつけなさい、
それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、
それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、
それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、
それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、
それはいつか運命になるから
ネット参照

マザーテレサの有名な言葉ですが、これは『運気』の話だったんですね。

情報商材で『運気を向上させるハウツー』って売りだす人もいるのでは?

もりはる

目玉の公晴おやじ

おい!鬼太郎!ワシじゃ、目玉の公晴おやじじゃ。

5年に一度ワシはこの世に復活するのじゃ。なんせバッチバッチに視力が回復してギンギラギンに世界を見渡せる、5年に一度の復活ならぬ『復活視力』。

何故復活しないといけないのか?だと、

それはにゃ、使いもせぬゴールドペーパードライバー、いわゆる『運転免許証』の更新をせねばならんからじゃ。

しかし、片目0.3は楽勝としても、両目0.7は復活してもギリ、、、まぁそもそも方目のワシがいうのもナゾなのじゃがな、、、

中型のバイクの免許が含まれると両目0.7要るらしい、、、

最強度近視のワシにはちと無理ゲーに近いわな、

そろそろ免許証も返却した方が無難かもな、なんて考えていたりするのじゃ、


しかし、最強度近視の目ん玉をブーストした世界は三半規管いわして、クラクラする😵‍💫

酔う

酔う。

よく見えるし、旅は目ん玉ブーストで行くべきだなー

などと、考えたりで、

祝杯あげるのじゃー

って、初めていく飲み屋さんに行ったり、


そこでママさんの手相をゲットしたり


なかなかブースト目ん玉は色々見えない(普段は)ものが見えたりで、テンションガタ上がり。

妖怪とか幽霊も見たかったのに、それは無理じゃったわ。

いやぁ、五年に一度の復活祭は楽し嬉しでおもろじゃった。

んな、かんじで

おい!鬼太郎!-15.00のソフトコンタクトレンズを外してくれ!

それではまた5年後じゃ。

おやすみ、むにゃむにゃ

目玉の公晴おやじ

ジョッキーとムチ

こんにちは、公晴です。

「人には少なからず嗜虐的な側面を持っているもの」と、こないだとあるテレビ番組で言っていた。

なるほど、確かにその通りだと思う。

ちなみに、

嗜虐とは

人や動物に対して苦痛を与えることを好むこと。むごたらしい行為を好む性癖。
goo辞書

動物愛護団体の方って嗜虐性ゼロなのかな?そもそも嗜虐性率ゼロパーセントの人間国宝みたいな人いるのだろうか??

教える仕事と嗜虐性

僕は教える仕事をしていて、時々「ハッ」と気付かされる。自分の嗜虐性に。

その度に『サラブレッドのジョッキー』みたくムチでベチベチやるのって『伸びるから打つわけで、伸びない人』にやるのってどうかと時々思うわけです。

心臓破りの坂を登りきってぶっちぎる。そんな『スパート』がみたい。

期待と共に、ムチを振う。

ジョッキーのムチって演技では

そこで、僕はいつも生徒さんに話すのですが、ジョッキーってたぶん演技で『ムチを打つふり』をしているんじゃないかなぁ。

だって一心同体で騎乗してラスト直接アシが残っているか?どうか?なんてたぶん一発入れただけでわかるとおもう。

なのに、あんなに『口パク』みたいにペチペチペチペチ大車輪。

動物愛護団体は何も言わないのだろうか、、

だからこそ『演技では?』と思ってしまうわけです。

たぶん馬主さんに仕事しているアピールをしないといけないんでしょうね。気持ちわかりますよ。

教えるとDVの違いとは?

いつも紙一重だなぁ、とおもうのはやっぱり『手応え』がないのに打ち続けるってのはいかがなものかと。

それに『むち』でベチベチされるのを求めてくる人ほど『一夜漬け』で身になってないことが多々ある。

揺るぎないもの

ジョッキーと馬のように『信頼』の関係が揺るぎないからできる技術『教鞭』。

だからやっぱり『伸びるだろう』『伸びて欲しい』って熱い気持ちがたぎるたびに、それに一発一発応えてくる生徒さんには感謝しかないです。

今日も張り切って教鞭を振いたいと思います。

公晴

 
 

吉凶について

おみくじといえば吉か凶か。大吉を引くとジャンプして嬉しがれるのに、凶系を引くと落ち込んで、落ち込んだだけでなく引きずる派だからおみくじを引かない、なんて人もいたりするのではないでしょうか(いんの?)。
やはりこういう類はケロリとすぐ忘れれる人向きだなぁ、と『一緒に行った人がおみくじを引いて一喜一憂している』のを眺めて楽しむ、という人もひょっとするといるのかもしれません。

そもそも『吉凶』とは何か?

吉…縁起や運が良いこと

凶…縁起や運が悪いこと
ネットより引用

ネットを調べるとこんな感じ。これではちょっと皆さんが知ってること。
なので、中国の『易経』を読むと、

吉凶とはその失得を言うなり。悔吝(かいりん)とはその小疵を言うなり。

吉凶を弁ずるものは辞に存し、悔吝を憂うるものは介に存し、震きて咎なきものは悔に存す。
易経の繁辞上伝

一気にランク上がりましたね。難易度大

「吉」は得る事であり、「凶」は失うこと。

そして吉と凶の境界は「悔」と「吝」にある。

「悔」は文字通り「悔い改めること」で「吝」は「思い切りがない、ためらう、ケチる」。
翻訳参照

どういうことかというと、

ある一定の事象に対して「きちんと向き合うか」「向き合うことおろそかにするか」の境界が吉凶の境界にある。

吉…得る事。事象と向き合うことで「吉」となるのは、向き合うこと自体が「得ること」につながるため。

凶…失う事。事象を軽視及び無視すること自体が「得るチャンス」を損失している。
翻訳参照

これらのことから言えることは、事象自体には吉凶は存在しない。

例えば、『部屋に何か楽器があること(事象)』自体は吉でも凶でもなくて、

『その楽器を手にとって弾くこと(アクション)』は「吉」であり、『その楽器を手に取らずに放置すること』が「凶」ということ。

ってことは、

「悔」の蓄積が「吉」を呼び、「吝」の蓄積が「凶」を呼ぶわけであり、それが表面化することをそれぞれ「吉事」「凶事」と呼んでいるだけ。

何かから目を逸らし続けている人は凶を呼ぶ

二、三年前ぐらいですか、法事があり、弟が家を継いだのにも関わらずその日は体調不良ということで、僕が仕切るハメになった時に気づいた『違和感』もきっとこれなのですね。

その日、弟は体調不良にも関わらず親族に挨拶もなく車を運転し家から出て行き何処かで時間を潰していた。

無意識なのか?意識してなのか?どちらにせよ『目を逸らす』癖は習慣として常習化している気がした。少なくとも、モヤモヤしたものが残りました。

何か事象が起こったときにそこから「逃げ続けている人」は凶事を招き続けるわけです。

その事象はきちんと向き合って欲しいから発生しているにも関わらず、そこから目を背けたり、無視したりし続けているとより大きなシグナルとなって事象は起きます。

植物を無視して水をやらないでいると枯れてしまいます。きちんと植物と向き合い手入れすることで植物は生き続けやがてはあなたに果実や安らぎを与えてくれるかもしれません。

これと同じで自分の気持ちときちんと向き合わず、ごまかし続けることで自分は滅びてしまいます。

向き合わなかった結果はわかりやすく「病気」や「事故」といったシグナルとして現れる。易経はそう言っているわけです。

しかし、何度もいうように「事象はあくまで事象」です。

この事象自体に吉凶はありません。この事象にどう向き合うのか。そこに「吉凶」があるわけです。
翻訳参照

人に『向き合うことを促すこと』の難しさ

占いというのは便利だなとつくづく思うのは、占いを使わないと壊れてしまいそうな人間関係でも、壊さずにその人を導くことができるかもしれないから。

あの時、このコトワリを知っていたらなぁ。

でも、逆にあの日の経験があったからこのコトワリがすんなり入ってきたのかもしれません。

レッスンも同じ


僕は仕事が『教える』ということを生業にしているのですが、『一緒に(楽器に)向き合ってあげる』ことで対価を得ていたのですね。

運が良いとは『向き合うチカラを有している』ということ

まとめると、

上手くいく人ってのは単純にそれが『運』が良いからではなかったのですね、

その人が『向き合って』答えを出して、行動をした『結果』のたまものでしかない。

『向き合うことを自然にできている』だけなんですね。

向き合い続けたいと思います。

公晴